軍師官兵衛19回

録画で『軍師官兵衛』19回を観ているが、信とは何か。裏切りとは何か。という面が強く出されている。

黒田官兵衛は危険かも知れない場合でさえ相手の大勢いるところに単身乗り込んでしまうのだ。

小寺の所にもそうしてしまった。この後、荒木の所にも行ってしまったところで捕まってしまう事になるはずだが、官兵衛はこれだけ単身で乗り込むというのは「信」の人であったからである。

...

しかしこの「信」の人の場合、相手が悪巧みの人だった場合にひどい目に遭ってしまうのだ。

官兵衛は1年間ほどか荒木の牢屋に入れられてしまい片足が不自由なまでに大変な目に遭ってしまうのだが、止める秀吉に向かってでさえ、「命を捨てる覚悟でも無ければ人の心は動きません」というセリフで秀吉に荒木のもとへ単身向かう。

これを現代社会に置き換えてみるとどうなのだろうか。

派遣社員切りなどと、その人のその後の生活のことなど思いもしないで
取り換えてしまうような発想は?いかに全体の企業がつぶれないためだとしても、交換可能な部品のように扱うのは、上と下の人と人の間に、交流も無ければ感情も生まれまい。

無人飛行の爆撃機なんていうのも出てきたらしく、自らの痛みの光景を感覚せずリモコン操作と画面からパソコンゲームのように、相手を爆撃してしまう感覚の麻痺は、茂木健一郎さんなどもTwitterで危惧していたことを思い出す。

黒田官兵衛の境遇は間違えた選択は即、死に連なっていて、現在のゲームのような派遣社員切りやリモコン操作と比べものにならぬほどの臨場感で生きていたのではないかと想像だけはするが、そんな時代であってでさえ、「信」を重視し、伴侶もお光という一人を信じた、黒田官兵衛

信じていた人たちに裏切られてしまってでさえも。

こういう状況を、経済人モデルみたいな感情を捨ててしまったモデルを信じてなろうとしてしまおうと言う経済学の人たちの世界と、そうで無いはずだった世界とのどう比較検討していけば良いだろうか。

現実に戦国時代は多くの敵の生命を奪い合いながら生きるしかなかった
境遇の人ではあるが、そういう限界状況の選択をしてしまった中で、
生命とは何か、信とは何かという面を、ドラマという脚色の中で、
現代人の現在の今に、どう思われるのかと問うているようだ。