光について

宇多田ヒカルの「オートマティック」が初めて営業車のラジオから流れてきたときは、こんな感覚があったのかと衝撃を受けながら聴いていたのを思い出す。

自分は宇多田ヒカルは、「光」で前後に分かれると思っているが、

それ以前にも「キャンニューキープアシークレット」に後半の感覚

らしきものを多少感じるかも知れないが、「光」に至って、そして

それ以降に、それ以前には無かったなんらかの感覚が加味されているのだろうと思う。

 

自分はその「光」以降が好きなのだが、光が人間が知る限りもっとも速いものなんでしょう?少なくとも人類がいる地球を1秒間に7回半まわれるスピードを持つならば、光は全てを握ることが出来るのだろうし、全てに降り注ぐことが出きるのだ。

 

光は万能だと考えて良いのか?そう考えて良いのだとすると、人間にも夢が叶う程度が高い人というのは「光度」が高いのだと考えて良いのか。

結婚出来た人にしても、誰かが誰かに光を感じたからなのではないか?

それとも影を感じたから光を与えてあげたいと思ったからなのか?

新幹線も光だったけれど、瞬時に遠ければ遠いほど遠くへ移動したいという人間の欲望が、光へ近づきたいと、機械を使うことによって

為そうとしてきた。

 

しかしダークマターというような暗黒のほうが光の量よりも圧倒的に宇宙には多いのだろうか。これは教えてもらわなければ知らない。

 

教えてくれる人がいることが、人間の生き行く基本だったのだろうに、家族性は破壊され、企業まで派遣切りなどの使い捨て社会になってしまった。

 

そもそも学校で企業の基本が理解されてしまってそれで企業が通用したら、企業差別による優位性なんて生じるはずがないのに。

 

実際は、気持ちの良い人がどこの企業にもいるはずで、株主とか遠く離れた会長とかが頭の中でこしらえただけの仕組みなのだろう。

 

光はもともと光なのだから人間のように近づきたいとも思わない。

本当に優位な気持ちを持っている人ならば、光のように欲しないでいられるのだろう。

光には程遠くある。