加工が自分で出来るほど。
商品やサービスは、加工や、当事者が出来ないことや当事者が代わって欲しいことなど、「当事者だけでは出来ないこと」の提供によって生じて、その尺度として、貨幣が用いられている。
だとすれば、例えば味噌にしても、誰かが作ってそれをお金を支払って買うことにより、お金の必要性、必要量が増えてしまうが、味噌を大豆や塩から自分で作れば、お金の必要性、必要量が減るはずだ。
味噌が加工されて他人が販売するための上乗せ分のお金が要らなくなるからだ。
このように、他人に依頼して商品を購入する場合には、「他人からの加工の上乗せ分のお金が増える」という増加現象を用いなくてはならなくなる。
さらに、そうして増加していったお金が、加工に参加していない人たちが寄ってたかってお金を奪おうとする。株のコメンテーターなんかがそういう人種だが、そういう立場の人が偉人になっていいのか?
ただあまりに加工が無さすぎると、パソコンも生じていないし、だとするとこういう文章も書くことが出来なくなってしまう。
文章というのも加工品と言えば加工品と言えるのかも知れない。
しかし、パソコンも要らないという人もいるし、そういう人が、食べられる分だけの食糧を種苗メーカーが提供する1代限りの種では無いような生種を用いたり、山や川や海で、塩や木の実や海藻などをとって生きていられた場合、そして病院にもかからない健康体が維持できたりする場合に、どれだけお金がいることになってしまうのかと
いうことにもなる。
江戸時代なんかで、伊勢参りを一生に一度だけ命がけで歩いて数か月もかけて往復してような時代の興奮は、数日で行ったり来たりしてしまうような現在の世界中への旅行と比較して少なかったと言えるのだろうか。
お金には交換や贈与という面も生じてしまうけれども、他人に頼む
「加工」という物質を変化して提供されるという方法がお金の量を増やし、加工能力やお金の持ち分の少ない人たちを苦しめ、「格差」という生活の人によっての差別を生み出してしまう元凶には違いない。
そういうお金に復讐してやるためには、宝くじの一等でも当てて
数億円を少しずつ使って一生暮らせるなら最高では無いだろうか。
しかしもしそうなったとして何らかのさみしさを感じるのだとしたらそれはなんなのだろうか?