本日は休み。

家族農業という生活の選択の一つでありえた事柄が衰退、絶滅に至って来て、一方で親がサラリーマンのために息子や娘が引きこもるという現象がずっと続いていて、政府はそういう問題に手をつけず、原発再稼働と海外輸出にやっきになっているという異常な国家の日本の中で、本日は勤務休みであり、やる気が無いので寝ようとしても、寝るためのやる気さえ無く、録画しようとスカパーの日本映画専門チャンネルをつけたら、

日本映画の『ひまわり』という作品をやっていてずらずらとそのままつけっぱなしにしてしまった。

 

Facebookも並行して観ながらでその映画に集中していなかったが、

流行りの堺雅人なども出ていて、それもネットで調べていて気付いた

ことで、調べていなかったら気づかず終えていたと思うし、ほとんどの事柄はそういうものだ。今そう思って部屋の外を見たら菜の花が揺らいでいるが、それさえ気づかないまま一年を終えてしまう場合だってあったことだろうし、すぐ菜の花の存在は忘れてしまうのではないか。

存在しながら気がつかない。信じられないくらい接近していながら、

気が付かないまま終えてしまうことはあるのだ。顕微鏡でみれば土の中には微生物がいっぱいいるにせよ、意識して操作しなければ知らないままのことである。

 

原発問題だって、熱心な人たちはこれ以上無く、連日Facebookなどで訴え続けているにも関わらず、ときたまテレビで原発問題が放映されていても、気づきの無い人たちには見えていながら見えていないものなのだから。

 

映画は、淡い初恋を扱ったもので、その後の複雑に他人たちと関係してしまった人生と人生が、もう再び現実には交錯出来ないままに、

思い出が写されて来るという所で、『ニューシネマパラダイス』で

初恋が実らなかった主人公が、初恋の思い出を超えることが出来ず、

相手からのトラウマでプレイボーイになりながら不満を解消できないというような、似たところも感じる映画だったようにも思う。

 

プラトニックな状態が破壊されて行く過程としての初恋を持つ人がほとんどなのだろう。そうならず、理想的には初恋の人と運命の人が一人きりという所で、無名のまま子供にバトンタッチして生涯を終える人たちが、なぜか自分にとっては清冽な生き方のようだという観念があったりする。

 

日本という国も性に対してはおおらかだったとか夜這いの風習とか、歴史資料的にも混乱しているだろうし、勉強不足でわからないが、それでも、第二次世界大戦前後のような、戦争そのものは否定されて当然だが、その頃のような異常な束縛もダメなことではあるけれども、一方で現在のように、自由すぎて、遊び人と化した若者時代からの男や女がとっかえひっかえ、くっついて離れて、挙句の果てに、生涯独身では、男女の間の運命は赤い糸というより、ヘリウムを入れた赤い風船のように軽く飛んでいくようなものなのだろうに、そういう自由さの中で、欲を満たしながら、くっついて離れていく過程で、真剣に悩むなんて様子がちゃんちゃら可笑しいような気がして、相当堕胎ににしてもドメスティックバイオレンスにしても、薬物の受け渡しにしてもたまにマスコミが問題視しながらも、そういう彷徨いを続けてしまう集団症状もあるのかも知れない。そんなことは誰もわざわざ言わないだろうから実際にはわからない。

 

ただ、原発再稼働とか海外輸出とか、その他もろもろのかなり病的とさえ言って良いくらいの方針を出すところが勝ってしまう日本という国は、個人個人が隠しながら彷徨っている状況をトップ層がその延長上で表現しているだけなのだろう。

 

映画の監督は、『世界の中心で愛を叫ぶ』の監督でもあるそうだが、

その映画のほうが純愛ものであるし良かったが、『ひまわり』のほうは純愛に至らなかったところからの様々な糸の絡み合いからの悲劇であるようで、直接的には汚い映画なんだろうが、精神的にはだから悲劇にしているところは、そんなに込み入らせないと現代の日本人は何かの中毒の中から考えを得るための好奇心を見いだせないくらいに無駄に難しくなってしまったのかと、監督たちの労力には不憫さを感じるほどである。とその通りならば、まだ純愛は絶滅しないのであろうか。

 

その監督も面倒なので名前を再検索しないが、自分より1つ年下だとは。真剣に表現を考えて実行している人はもう、『ひまわり』でさえ

10年も前の映画らしいのだ。ただ、『世界の中心で愛を叫ぶ』の

ほうが後の作品である。映画作家も心境は変化していったり老成へ向かいはするだろう。

 

その中で、現在39歳らしいが、栗田だと思ったら粟田か。クリタだと思ったらアワタか。粟田麗という女優が出ているのを調べて知り、

これもネット時代じゃ無ければ通り過ぎるところだが、だが忘れてしまうと通り過ぎてしまうわけであり、だからこそ、文章で残しておくことで自分とは違う誰かが全く違う事柄になったとしても、なんらかのヒントが頭の中から出て来るのではあれば、それは永遠に忘れ去られるということでも無い。そういう可能性を残すのだ。

そういう意味では、書き残すということは可能性を残すのだ。

 

その、粟田麗という女優はルックスが自分の好みのタイプだから印象に残って調べたわけだが、原発再稼働が噂されている、薩摩川内市の出身らしい女優の小西真奈美にちょっと似ているように思う。年をとったほうを基準にすれば小西は粟田に似ているような気がする。

 

さらに粟田が、仮面ライダー剣ブレイドと読むらしい)に出たときの主演俳優の一人と対談しているのがYouTubeに出てきたが、その男優は雛形あき子と入籍したとウィキペディアにある。

 

雛形あき子は、『ジャングルの王者ターちゃん』だったと思うが、雛形の絵を観てターちゃんの眼が飛び出る場面があったと思うのだが、それを見た当時の自分は雛形あき子ってそんなにすごいのかと思って

実際のグラビア写真をみたらやはりすごかった。

かとうれいこもすごかったと思う。

 

そんな思い出が蘇ってきても47歳が近づきながらなぜ独身から抜け出せないのか。

 

『ひまわり』にしても自分より5歳から10歳ほど年下の人たちが

20代を演じた話であろう。

 

それからさらに人間関係は時の流れとともに変化しているのに。