『世界の中心で、愛を叫ぶ』と『モテキ』の対比

森山未来長澤まさみが共演した映画、『世界の中心で、愛をさけぶ』が2004年で相手に死が訪れる純愛映画だった。これは一度テレビでみたような気がする。しかし、2011年、大震災の年に、同じ共演で『モテキ』という映画が出され、日本映画専門チャンネルで録画して15分ほど見たが、最初からひどい映画でセリフもひどい。胡散臭い、糸井重里と対談した監督で脚本の大根仁というダイコンみたいな名前で仁などという孔子の重要な言葉までいただいた人が作っているが、1968年生まれで自分より一つ下だが同年代だろう。こういう映画が22億円の興行収入を得ていた。大震災の半年後で、脱原発デモ行進などが盛んであった時期にである。これは糸井にダイコンが放映されないだろうと思ったと対談を述べていたが、日本国民はどういう状況だろうが乱れた映画だってなんだって観てしまうものなのであった。

世界の中心で、愛をさけぶ』の行定勲も1968年生まれだ。この映画のほうは85億円の興行収入を得ている。岩井俊二という人の流れを汲んでいるらしいが、岩井監督という人は脱原発のような方向とも親密な人物なの...だろうか。脚本家の坂元という人は自分と同い年だ。『東京ラブストーリー』の脚本も手がけていたらしいが、優柔不断のカンチの織田裕二も自分と同い年だ。

モテキ』と言うのは、『世界の中心で、愛をさけぶ』の共演者の森山と長澤が同じという点だけ見ても、世界に対する辱めなのでは無かったかという日本国民に潜むひねくれた心情を見せたように思えてならない。
または痛烈な皮肉だったのだろうか。『モテキ』の放映当時、『世界~』
との対比で怒りをあらわにした人たちがいたかどうかの情報は得られていない。

マツリゴトなども限界があって元から質素な時代だったら高揚感で済むのだが、現在のようなマテリアルワールドでは、マツリゴトが悲惨な逆説にしかならない。『モテキ』のオープニングで神輿の場面が出てくる。

神は本当は日本国民にどういう生き方をもたらそうとしていたのだろうか。

世界の中心で、愛をさけぶ』と『モテキ』の対比は、
日本の神々を祀った神社のそばに臨界工業地帯や、原発を建設してしまったという侮辱のような対比を思い出させてならないが、そう思ってしまうのは自分だけだろうか。